第5回 ラテンアメリカの「先住民」[村上勇介]
2016年3月1日 12時21分ラテンアメリカの「先住民」
[村上勇介]
京都大学地域研究統合情報センター・准教授。専門は、ラテンアメリカ地域研究および政治学。
https://www.cias.kyoto-u.ac.
イベリア半島には様々な都市文化が重層するユニークな都市が形成されてきた。その都市形成の歴史は大きくいくつかの層に分けて理解することができる。先住民の都市集落、フェニキア、カルタゴ、ギリシャの植民都市、ローマの植民都市、イスラーム都市、キリスト教都市の各層である。各都市の都市景観は重層的にその歴史を残している。ここでは、イベリア半島の都市の伝統を形成する歴史の層を大きく振り返ってみたい。
イベリア半島の先住民と考えられるイベロ族1は南スペインのグアダルキビル渓谷にタルテッソスと呼ばれる王国を築いていたとされる2。
紀元前1000年頃から、ケルト族3がピレネー山脈を越えて北部から半島に進入し、半島全域に居住してイベロ族と混血して、セルティベロ(ケルト・イベロ)族が形成される。ケルト族はイベリア半島に鉄器をもたらし、小規模な丘に城塞集落カストロを築いて周辺を支配した。半島中部では、より大きな城塞集落オッピドゥムへ発展していく。考古学の知見によれば、オッピドゥムは円形住居によって構成され、紀元前5世紀頃から矩形の住居が現れる。紀元前3世紀頃になると、さらに大きな城塞集落が現れるようになるが、その規模には地域差があったと考えられている。スペイン中央北東部のヌマンティア(ヌマンシア、Numancia)は紀元前3世紀初頭の都市遺構とされるが、全体は楕円形をしており、街路は整然としたグリッド・パターンをしている(図1-1)。
一方、平行してフェニキア人が半島南部に進入してきて、いくつかの植民拠点を築く。その中心はガディル(カディス、Cadiz)(図1-2)であるが、他にマラカ、セクシ、アブデラが知られる。タルテッソス王国の豊かな鉱物資源は広く知られており、フェニキア人はアッシリア帝国が必要とする銀を半島の鉱山に求めて進入してきたと考えられる。
紀元前6世紀にフェニキアにとって変わったカルタゴが半島全域を支配し、その最重要拠点をイビサ島(Ibiza)およびカルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ、Cartagena)に置いた。他方、ギリシャ人たちは半島北東部地中海沿岸にエンポリオン(BC.580)などいくつかのコロニーを建設している。
ローマがカディスを占領したのは紀元前206年である。以降600年間はローマの時代である。半島はイスパニアと呼ばれ、ローマの有力なプロヴィンシア(州)となる。
ローマは、占領当初、東部をイスパニア・キテリオル州、南部をイスパニア・ウルテリオル州とし、イタリカ(サンティポンセ)、カルティア(アルヘシラス)、コルヅバといったコロニーを建設する。アウグストゥスの時代には半島は3つの属州に分けられ、元老院が派遣するプロコンスル(総督)によって統治された。各州はさらに管区(コンヴェントゥス)に分割された。キテリオル州の7区それぞれの中心都市は次のとおりである(カッコ内は現在の名称)。タラコ(タラゴナ)、カルタゴ・ノバ、カエサラ・アウグスタ(サラゴサ)、クルニア(コルーニャ・デル・コンデ)、アスツリカ・アウグスタ(アストルガ)、ルクス・アウグスタ(ルゴ)、ブラカラ・アウグスタ(ブラガ(ポルトガル))。バエティカ州の4区それぞれの中心都市は、コルドバ、アスティギ(エシハ)、イスパリス(セビージャ)、ガデス(カディス)、ルシタニア州の3区それぞれの中心都市は、エメリタ・アウグスタ、パクス・ユリア(ベージャ(ポルトガル))、スカラビス(サンタレン)である(図1-3)。
ローマ時代当初の形態を維持する都市に、タラゴナ(タラコ)、アストルガ(アスツリカ・アウグスタ)、レオン、ルゴなどがある。また、イスラームによって支配されたがローマ時代の遺構を残す都市としてサラゴサ、バルセロナ(バルキーノ)、パンプローナなどがある。イスラームによって占拠されアラブ人郊外居住地をもつかつてのローマ都市として、イベリア半島を代表するセビージャ、コルドバ、グラナダがある。「ローマ・クワドラータ(正方形のローマ)」と呼ばれるグリッド(碁盤目)・パターンの街区がローマ都市の特徴である(図1-4)。
いわゆるゲルマン民族大移動がイスパニアに及ぶのは5世紀初めである。そして、西ゴート王国が300年間半島を支配することになる(415~711)。トロサで建国され、首都は、一時期メリダに移されるが、滅亡までトレドに置かれた。西ゴート時代に建設された都市として、マドリード東近郊のレコポリス、ピクトリアム、オロギスクが知られる。
711年、イスラーム軍がジブラルタル海峡を渡って侵入してトレドを攻略する。西ゴート王国は滅亡し、わずか数年でほぼ全半島は占領される。その拠点は、当初セビージャに置かれ、まもなくコルドバに移された。サラゴサ、トレド、メリダの3都市はキリスト教徒勢力圏への前線基地とされた。
アッバース革命(750)によって倒れたウマイヤ朝のアブド・アル・ラフマーンⅠ世が逃れてきて、後ウマイヤ朝を建てたのは756年である。8世紀から11世紀にかけてイベリア半島はアラブ世界からは独立したイスラーム王国に支配されることになる(図1-5)。中心となったのは、コルドバ、セビージャ、そしてグラナダである。アンダルスのイスラーム諸都市は、ローマ時代の都市を基礎とし、イスラーム文化の華を咲かせた後、再び、レコンキスタされるという共通の歴史特性をもっている。イスラーム時代のモサラベの存在とレコンキスタ後のムデハル4の存在がその特性を象徴する。彼らの多くはコルドバ、セビージャ、トレド、バレンシアなどの大都市に居住したが、その活動によって、イスラーム文化と中世スペイン・キリスト教文化との融合を行うのである。
イスラームの侵入とともにレコンキスタ(Reconquista、再征服/国土回復)は開始される。イスラーム軍の進入経路には、カストロヘリスなど多くの城塞都市が建設された。
カスティーリャ王フェルナンドⅠ世(在位1035~65)がレオン王位を継承しカスティーリャ=レオン王国が成立すると、レコンキスタは飛躍的に進展する。レオン・カスティーリャ王国に建設された拠点都市は、サンティアゴ巡礼路都市とメセータ(中央台地)都市に大別される。サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すサンティアゴ巡礼は十字軍遠征と平行する中世ヨーロッパの一大宗教運動のひとつであり、その巡礼路にはブルゴス、レオンのような主要都市以外に多くの小都市(人口2000~3000人)が形成された(図1-6)。
カトリック両王によってグラナダ王国が攻略され、レコンキスタが完了し、真の意味でのスペイン王国が成立したのは1492年である。そして1492年は、クリストバル・コロン(コロンブス)がグアナハニ(サン・サルバドル)島へ到達し、最初の植民拠点として、エスパニョーラ島にナビダ(Navidad)要塞(現ハイチのモレ・サン・ニコラス)5を建設した年である。以降、レコンキスタからコンキスタ(Conquista、征服)へ、スペイン王国はその領土を大きく拡張していくことになる。
<脚注>
[布野修司]
日本大学特任教授。1949年、松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学、地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手、東洋大学講師・助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年)、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。
日本で教えられるスペイン語は、これまでは大抵ヨーロッパのスペインという国の標準形でした。しかし堀田英夫先生の書かれたコラム「南北アメリカ・スペイン語圏形成の一歩」からわかるように、この世界の21か国でスペイン語が公用語になっているし、その人口も1位がメキシコで2位がコロンビア、3位がスペインです。ところが経済活動を計る国内総生産 (GDP)を見ると、スペイン語圏ではスペインが1位(世界14位)で、2位がメキシコ(世界15位)です(日本が世界第3位であることは知っていますね)。南北アメリカ大陸はかつて、そのほとんどがスペインの植民地であったという歴史的理由や、それゆえにスペイン文化を色濃く継承しているという文化的理由で、スペインのスペイン語が教えられてきましたが、今後は教育機関によって変わってくるでしょう。
人々は時代の変化と共に生まれたり接したりする目新しい物事に名前を付けなくてはなりません。それゆえ日本語もスペインのスペイン語も、いわゆる中南米各国のスペイン語も、色いろな異言語のことばを導入しています。そしてそれが各言語の、単語の出自という点で多様性を生み出します。
このコラムでは、スペインのスペイン語の単語の出自に見られる多様性を少しお話します。
スペイン語はもともと、話しことばのラテン語が発展してできた言語です。ラテン語には書きことばと話しことばがあります。書かれたことばとしてのラテン語は文語の古典ラテン語です。それは話しことばである口語の平俗ラテン語とは異なります。スペイン語はこの口語ラテン語から生まれました。それが歴史に登場するときのスペインの、もとの言語です。そして10世紀を過ぎたころからスペイン語が登場します。
スペインは西ヨーロッパの南にあるイベリア半島に存在します。このあたりは西暦紀元の前からローマ帝国の一部になっていました。ローマから来た人たちはイベリア半島の各地で口語ラテン語を使っていました。スペイン語が登場した頃には、ほかにも口語ラテン語から発展した言語が生まれます。その代表的なものとして、イベリア半島の西北部の地方で使われるガリシア語と東部で使われるカタルーニャ語があります。これらはスペイン語と同じように口語ラテン語から生まれた、スペイン語の姉妹語です。イベリア半島には、また、ローマ人がやってくる前から使われていた言語が残っています。それが北部で使われているバスク語です。スペインで使われているこれらの異言語からスペイン語に入った単語をいくつか紹介しましょう。
ガリシア語はポルトガル語ととてもよく似ています。ひとつの言語(ガリシア・ポルトガル語)としても扱われます。ジャムの「マーマレード」は知っていますね。この日本語はフランス語(marmelade)から入ってきましたが、このフランス語は、また、ガリシア・ポルトガル語に入ってmarmeladaになり、これがスペイン語に入ってmermelada[メルメラダ]になっています(この3種類のスペルの微妙な違いに注意してください)。
イベリア半島東部で広く使われているカタルーニャ語からスペイン語に入ったことばもあります。興味深い歴史的な事情から、「紙」の意味のスペイン語papelもカタルーニャ語から入っています。紙は中国で製法が発明され、日本にもヨーロッパにも導入されました。紙の製法がヨーロッパに紹介されたのは、アラビア人がスペインのカタルーニャ地方やイタリアに工場を作ってからです。文字を記録する材料としてローマ世界で知られていたのはパピルス(ラテン語でpapyrus)でしたが、このラテン語からカタルーニャ語で紙を指すのにpaperという言葉が作られ、それがpapel[パペル]という語形でスペイン語に入りました。紙は英語でもpaperと言いますが、これはラテン語papyrusから作られた古い英語に由来します。
バスク語は言語系統が不明です。スペインとフランスの間にそびえるピレネー山脈の南北で使われています。スペイン語には面白いバスク語系のことばがあります。それは「左」の意味のizquierda[イスキエルダ]です。スペインのもとの言語はラテン語でしたね。ラテン語にも「左」の意味のことばsinestrumがありました。では、なぜ同じ意味のことばをバスク語から導入したのでしょうか。このラテン語はスペイン語に入ってsiniestro[シニエストロ]になりましたが、イベリア半島の人々が、鳥が左側から飛び立つと縁起が悪いと信じていたために、siniestroに不吉な意味が加わったのです。不吉な意味を避けるためにバスク語から同じ意味の単語を採用したのですね。
次回はアラビア語からスペイン語に入っていることばの話をします。
[三好準之助]
京都産業大学名誉教授
ドミニカ共和国は、カリブ海に浮かぶエスパニョーラ島の東部にあり、首都サント・ドミンゴの旧市街は、「植民地時代都市」 (Ciudad Colonial) という名で1990年にユネスコの世界遺産として登録されている。ここは、コロンブス (スペイン語名クリストバル・コロン) の弟バルトロメ・コロンによって1496年にオサマ川の東側に建設された町が元になっている。1502年にエスパニョーラ島の総督としてスペインから派遣されたニコラス・デ・オバンドがオサマ川の西側に移した町が現在の植民地時代都市である。オサマ川の河口が、物資の積み下ろし、また人の行き来のための港として機能していたことがわかる場所にある。
ここの歴史的建造物は、「南北アメリカで最初の」という説明がつくものが多い。すなわちスペイン人は、このサント・ドミンゴを最初の足がかりに、カリブ海域各地を探検し、1511年にキューバ島を征服、1521年にメキシコのアステカ王国を滅ぼし、1533年ペルーのインカ帝国を征服していった。そしてドミニカ共和国を含め、カリブ海にあるキューバ、プエルトリコ、大陸のメキシコ、中米(グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ)、南米のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイといった国々を含む広大な領域がスペイン語圏となったのである。
ドミニカ共和国は、野球で有名であり、政府開発援助 (ODA) などで日本との関係が深い。2000年に提訴された「ドミニカ移民訴訟」は、日本の国家と国民との関係を考えるために知る必要がある。世界史的には、ラス・カサス神父に先駆け、この地のドミニコ会士を代表してアントニオ・モンテシーノス師が、スペイン人植民者による先住民への虐待を糾弾した説教を1511年にサント・ドミンゴの教会で行ったことも重要である。また、スペイン語を学んでいる者にとっては、今日の南北アメリカのスペイン語圏が形成された最初の一歩が印されたところとして記憶したい。