スペイン語やスペイン語圏文化・社会などに関するコラムやレポート

 スペイン語を学ぶだけでなく、それが話されている社会についても理解を深めるために、スペイン語圏の文化や社会に造詣が深い執筆者によるコラムを掲載しています。コラムの多くが教科書のユニットテーマと関連しています。また、関連情報や留学体験記などもレポートも掲載しています。

 下のリストから掲載回をクリックすると、当該回だけが表示されたページへジャンプします。また、コラム・レポート本体欄の右肩にあるカテゴリ選択からテーマを選ぶと、関連するものが表示されます。

スペイン語やスペイン語圏の文化・社会などに関するコラムやレポート

第5回 ラテンアメリカの「先住民」[村上勇介]

2016年3月1日 12時21分
先住民

ラテンアメリカの「先住民」


村上勇介

 ラテンアメリカ(中南米)の先住民と聞けば、色鮮やかな民族衣装を着た、われわれモンゴロイド系と何となく似通ったところがある人々を思い描くかもしれない。あるいは、「コンドルは飛んでゆく」のような民族音楽の奏でる音色を思い浮かべるむきもあろう。そうした心象は日本に限らず、世界中に拡散しているものであり、また決して誤ってはいない。

 それでは、なぜここで括弧をつけて「先住民」としているのか。それは、色鮮やかな民族衣装を着ているラテンアメリカの先住民は、同じように色鮮やかな民族衣装を着けた、例えば東南アジアの先住民とはいささか意味合いが違うことを言いたいためである。以下にその理由を説明する。

 高校の世界史や地理で習ったとおり、現在われわれがラテンアメリカと呼んでいる地域の先住民と呼ばれる人々は、氷河期の末期に、凍っていたベーリング海峡を渡って移住したモンゴロイド系の子孫である。ラテンアメリカの先住民の人々も蒙古斑を持って生まれる。大航海時代にスペインとポルトガルの植民地となってからは、少数の白人支配のもとで厳格な身分制社会の底辺に追いやられた。植民地期以降、徐々に混血が進む一方、格差社会の構造が大きく変わることはなく、階層が下になるほど先住民系の血が濃くなる傾向は今日に至るまで観察されている。

 そうした白人系と非白人系の区別や格差構造などは、同じように植民地を経験したその他の地域でも見られる傾向ではないかと言われるかもしれない。確かにそうした傾向は世界各地にみられる。それでは、何が違うのか。それは、植民地としての経験のあり方である。ラテンアメリカは、16世紀から19世紀初頭までと、他の地域と比較してもかなり長期に植民地支配のもとにあった。それによって、先住民社会・共同体といえども、一定の再編・改変過程を経ているのである。ラテンアメリカ以外の地域では、19世紀以降の帝国主義の時代に植民地化が進むが、その過程では、点と線を支配する傾向がラテンアメリカよりも強く、その分、先住民社会への浸透は弱かった。

 象徴的な例を挙げよう。南米のアンデス山脈地域に住む先住民の多くが使用する言語にケチュア語がある。話者の多いペルーとボリビアでは公用語の一つになっている。それでは、ケチュア語は元々多くの先住民が使用する言語だったのか。

 実は、ケチュア語が多くの先住民によって使われるようになったのは、植民地時代である。キリスト教の布教を行おうとしたカトリック教会が、「先住民言語」として用いたことから、アンデス高地においてケチュア語が定着したのである。そうした状況は、先住民言語としては話者の多い、アイマラ語(ペルー南部とボリビア)やナワトゥル語(メキシコ)についても当てはまる。

 それ以前はどうだったのか。現代の表現を使えば、多文化状況にあったのである。広範囲に統一的な支配権力を確立した部族(アンデス高地ではインカ族)は、傘下に置いた各地の支配層については自らの言語や習慣を押し付けたが、民衆レベルまではそのようなことはしなかった。つまり、各地には、独自に発展していた様々な文化が言語も含めて存続していたのである。

 以上のような状況から、植民地時代にケチュア語が定着したといっても、各地の状況に応じたバリエーションが生まれた。ケチュア語をはじめとするラテンアメリカの先住民言語は元来文字を持たず、また、当時は文法が規範化されていたわけでもなかったので、布教という「実践現場」では様々な融合が発生したからである。実際、ペルー南部のクスコのケチュア語について、同国中部のアヤクチョ出身者であれば半分ぐらいは理解できるが、北部のカハマルカ出身者は全く理解できないという。

 植民地体制による再編・改変を経ているとはいえ、植民地期以前の要素や特徴が先住民社会・共同体から消滅したわけでは決してない。押し付けられた枠への適合を余儀なくされながらも、独自の要素や特徴を一定のレベルで保ち続けてきている。日曜日の午前中にミサのため教会に行き、午後にはアンデス高地の地母神パチャママへの儀式を行う、といったことが当たり前のように行われている。 

 皆さんが目にするラテンアメリカの先住民の人々は、東南アジアなど他の地域の先住民の人々よりは「先住民的ではない」かもしれない。

[村上勇介]
京都大学地域研究統合情報センター・准教授。専門は、ラテンアメリカ地域研究および政治学。
https://www.cias.kyoto-u.ac.jp/staff/murakami.php
2016年度前期は「ラテン・アメリカ現代社会論」(水曜2限)を担当。

第4回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (2)[三好準之助]

2016年2月25日 22時11分
スペイン語の多様性

スペイン語の多様性 ―単語の出自から―(2)

三好準之助

 スペイン語という言語の、単語の出自における多様性の話をしています。その2回目です。

 ヨーロッパの言語の多くは、スペイン語やガリシア・ポルトガル語と同じように口語ラテン語が変化して生まれました。これらを総称して「ロマンス語」と呼びます。フランス語・イタリア語・ルーマニア語などがそうです(なお、恋愛関係の日本語「ロマンス」は英語のromanceからの借用語ですが、ヨーロッパの文芸思潮に関係します)。このロマンス語のなかでスペイン語の特徴をあげるとき、アラビア語の痕跡が加わります。なぜでしょうか。

 ローマ帝国はキリスト教を国教にしていましたから、ロマンス語を使う世界もキリスト教の国々になりました。しかし7世紀の初頭にはアラビア半島でイスラム教が生まれ、それがアラビア半島の東西に広がっていきます。東に広がったイスラム教の波はインドネシアやフィリピンにまで達しました。そして西に向かう波はアフリカの地中海沿岸にそってモロッコまで達しましたが、そのモロッコの北に、スペインの存在するイベリア半島があります。西に広がるイスラム教の波(アラビア人や北アフリカ人など、アラビア語を使う人たち)は、8世紀の初頭にはアフリカ北岸を超えてイベリア半島に侵入します。イスラム教の勢力はイベリア半島を占領して、おもにスペイン南部に定着し、それから15世紀末まで800年近く、その地を支配します。彼らは当然、現地の人(一種のロマンス語を話していた人たち)と共生することになりますが、その結果、多くのアラビア語が現地のもとの言語に入ります。それがスペイン語にも残ることになりました。

 今日のスペイン語の単語の8%ほどがアラビア語系のものだという研究者もいます。このことがロマンス語のなかのスペイン語の特徴になっており、スペイン語の単語の面での多様性のひとつです。では、どのようなことばがアラビア語系なのでしょうか。

 まず、「油」の意味のaceite[アセイテ]があります。スペイン語はラテン語から発展した言語ですが、ラテン語にも油の意味のことばoleumがありました。これがスペイン語に入ってoleo[オレオ](今日では油絵の「油」の意味)になりました。しかしこのことばは、古くは別の語源(ラテン語のoculum)からスペイン語に入っていたojo「目」ということばと発音が似ていたので、誤解を避けるために油をアラビア語系のaceiteと呼ぶようになったのです。油の代表格であるオリーブ油もaceiteと言います。そしてオリーブ油の供給源である樹木のオリーブもアラビア語を借用して、aceituna[アセイトゥナ]と呼んでいます。地中海地方で古くからよく栽培されるオリーブを指すことばは、もちろんラテン語にもあります。その樹木や実はoliva(オリーバ)と、その油はolivumと呼ばれます。日本語の「オリーブ」は英語のoliveから入りました。この英語ももちろんラテン語系ですが、古いフランス語を経由しています。

 つぎに「綿」があります。スペイン語ではalgodónと言います。このことばは綿といっしょにアラビア語qutnから入ってきました。すでに10世紀には使われています。qutnにアラビア語の定冠詞al- が付いて、古くはalgotónになり、それが現在ではalgodón[アルゴドン]という語形になりました。日本では綿や綿花を「コットン」と呼ぶことがありますが、日本語のコットンは英語cottonから入りました。アラビア語qutnがイベリア半島からフランスに入り、フランス語から古い英語に入り、その英語が日本に届いたのです。

 「砂糖」はスペイン語でazúcar[アスカル]と呼びます。アラビア語súkkarから入りました。しかし砂糖はアラビア語文化圏が原産地ではありません。原産地はインドあたりで、サンスクリットで呼ばれていたのでしょう。それがアラビア語に入りました。また、ギリシア語にも入り、sakkharonになります(いまでは珍しい人工甘味料の「サッカリン」という日本語は、このギリシア語を使った英語saccharinから入っています)。アラビア語súkkarが古いフランス語を経て英語のsugarになりました。

 オレンジは、スペイン語でnaranja[ナランハ]と言います。このことばはアラビア語naranya[ナーランジャ]から形成されました。この樹木や果実も砂糖と同じように、インドのサンスクリットが起源です。日本語の「オレンジ」は英語orangeから入りましたが、この英語は古いフランス語が語源です。フランス語にはスペイン語naranjaが入りましたが、その果実の黄金色とラテン語系のフランス語or「黄金」のイメージから語頭のn- が落ちてしまったのです。

[三好準之助]
京都産業大学名誉教授

第3回 スペイン語圏の都市景観(1)[布野修司+Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO]

2016年2月9日 22時05分
都市景観

第3回  スペイン語圏の都市景観(1)

イベリア半島における都市形成


布野修司
ヒメネス・ベルデホ・ホアン・ラモン Juan Ramón JIMÉNEZ VERDEJO

イベリア半島には様々な都市文化が重層するユニークな都市が形成されてきた。その都市形成の歴史は大きくいくつかの層に分けて理解することができる。先住民の都市集落、フェニキア、カルタゴ、ギリシャの植民都市、ローマの植民都市、イスラーム都市、キリスト教都市の各層である。各都市の都市景観は重層的にその歴史を残している。ここでは、イベリア半島の都市の伝統を形成する歴史の層を大きく振り返ってみたい。

 

ケルト・イベロの都市集落

イベリア半島の先住民と考えられるイベロ族1は南スペインのグアダルキビル渓谷にタルテッソスと呼ばれる王国を築いていたとされる2

紀元前1000年頃から、ケルト族3がピレネー山脈を越えて北部から半島に進入し、半島全域に居住してイベロ族と混血して、セルティベロ(ケルト・イベロ)族が形成される。ケルト族はイベリア半島に鉄器をもたらし、小規模な丘に城塞集落カストロを築いて周辺を支配した。半島中部では、より大きな城塞集落オッピドゥムへ発展していく。考古学の知見によれば、オッピドゥムは円形住居によって構成され、紀元前5世紀頃から矩形の住居が現れる。紀元前3世紀頃になると、さらに大きな城塞集落が現れるようになるが、その規模には地域差があったと考えられている。スペイン中央北東部のヌマンティア(ヌマンシア、Numancia)は紀元前3世紀初頭の都市遺構とされるが、全体は楕円形をしており、街路は整然としたグリッド・パターンをしている(図1-1)

図1-1 ヌマンティア
図1-1 

 フェニキア・カルタゴの植民都市

一方、平行してフェニキア人が半島南部に進入してきて、いくつかの植民拠点を築く。その中心はガディル(カディス、Cadiz)(1-2)であるが、他にマラカ、セクシ、アブデラが知られる。タルテッソス王国の豊かな鉱物資源は広く知られており、フェニキア人はアッシリア帝国が必要とする銀を半島の鉱山に求めて進入してきたと考えられる。

紀元前6世紀にフェニキアにとって変わったカルタゴが半島全域を支配し、その最重要拠点をイビサ島(Ibiza)およびカルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ、Cartagena)に置いた。他方、ギリシャ人たちは半島北東部地中海沿岸にエンポリオン(BC.580)などいくつかのコロニーを建設している。

図1-2 ガディル(カディス) 地図1513; 1700; Catedral; Santa Catalina Castle
図1-2

ローマ都市

ローマがカディスを占領したのは紀元前206年である。以降600年間はローマの時代である。半島はイスパニアと呼ばれ、ローマの有力なプロヴィンシア(州)となる。

ローマは、占領当初、東部をイスパニア・キテリオル州、南部をイスパニア・ウルテリオル州とし、イタリカ(サンティポンセ)、カルティア(アルヘシラス)、コルヅバといったコロニーを建設する。アウグストゥスの時代には半島は3つの属州に分けられ、元老院が派遣するプロコンスル(総督)によって統治された。各州はさらに管区(コンヴェントゥス)に分割された。キテリオル州の7区それぞれの中心都市は次のとおりである(カッコ内は現在の名称)。タラコ(タラゴナ)、カルタゴ・ノバ、カエサラ・アウグスタ(サラゴサ)、クルニア(コルーニャ・デル・コンデ)、アスツリカ・アウグスタ(アストルガ)、ルクス・アウグスタ(ルゴ)、ブラカラ・アウグスタ(ブラガ(ポルトガル))。バエティカ州の4区それぞれの中心都市は、コルドバ、アスティギ(エシハ)、イスパリス(セビージャ)、ガデス(カディス)、ルシタニア州の3区それぞれの中心都市は、エメリタ・アウグスタ、パクス・ユリア(ベージャ(ポルトガル))、スカラビス(サンタレン)である(1-3)

図1-3 ローマ主要都市
図1-3

ローマ時代当初の形態を維持する都市に、タラゴナ(タラコ)、アストルガ(アスツリカ・アウグスタ)、レオン、ルゴなどがある。また、イスラームによって支配されたがローマ時代の遺構を残す都市としてサラゴサ、バルセロナ(バルキーノ)、パンプローナなどがある。イスラームによって占拠されアラブ人郊外居住地をもつかつてのローマ都市として、イベリア半島を代表するセビージャ、コルドバ、グラナダがある。「ローマ・クワドラータ(正方形のローマ)」と呼ばれるグリッド(碁盤目)・パターンの街区がローマ都市の特徴である(図1-4)

図1-4 「ローマ・クワドラータ(正方形のローマ)」と呼ばれるグリッド(碁盤目)・パターンの街区
1-4

西ゴ-トの都市

いわゆるゲルマン民族大移動がイスパニアに及ぶのは5世紀初めである。そして、西ゴート王国が300年間半島を支配することになる(415711)。トロサで建国され、首都は、一時期メリダに移されるが、滅亡までトレドに置かれた。西ゴート時代に建設された都市として、マドリード東近郊のレコポリス、ピクトリアム、オロギスクが知られる。

アンダルス(スペイン・イスラーム)都市

711年、イスラーム軍がジブラルタル海峡を渡って侵入してトレドを攻略する。西ゴート王国は滅亡し、わずか数年でほぼ全半島は占領される。その拠点は、当初セビージャに置かれ、まもなくコルドバに移された。サラゴサ、トレド、メリダの3都市はキリスト教徒勢力圏への前線基地とされた。

アッバース革命(750)によって倒れたウマイヤ朝のアブド・アル・ラフマーンⅠ世が逃れてきて、後ウマイヤ朝を建てたのは756年である。8世紀から11世紀にかけてイベリア半島はアラブ世界からは独立したイスラーム王国に支配されることになる(図1-5)。中心となったのは、コルドバ、セビージャ、そしてグラナダである。アンダルスのイスラーム諸都市は、ローマ時代の都市を基礎とし、イスラーム文化の華を咲かせた後、再び、レコンキスタされるという共通の歴史特性をもっている。イスラーム時代のモサラベの存在とレコンキスタ後のムデハル4の存在がその特性を象徴する。彼らの多くはコルドバ、セビージャ、トレド、バレンシアなどの大都市に居住したが、その活動によって、イスラーム文化と中世スペイン・キリスト教文化との融合を行うのである。

図1-5 アンダルスのイスラーム諸都市
1-5

キリスト教都市

イスラームの侵入とともにレコンキスタ(Reconquista、再征服/国土回復)は開始される。イスラーム軍の進入経路には、カストロヘリスなど多くの城塞都市が建設された。
 カスティーリャ王フェルナンドⅠ世(在位1035~65)がレオン王位を継承しカスティーリャ=レオン王国が成立すると、レコンキスタは飛躍的に進展する。レオン・カスティーリャ王国に建設された拠点都市は、サンティアゴ巡礼路都市とメセータ(中央台地)都市に大別される。サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すサンティアゴ巡礼は十字軍遠征と平行する中世ヨーロッパの一大宗教運動のひとつであり、その巡礼路にはブルゴス、レオンのような主要都市以外に多くの小都市(人口2000~3000人)が形成された(図1-6)。


図1-6 地図 キリスト教都市 巡礼路の小都市形成

図1-6 凡例 キリスト教都市 巡礼路の小都市形成
図1-6

カトリック両王によってグラナダ王国が攻略され、レコンキスタが完了し、真の意味でのスペイン王国が成立したのは1492年である。そして1492年は、クリストバル・コロン(コロンブス)がグアナハニ(サン・サルバドル)島へ到達し、最初の植民拠点として、エスパニョーラ島にナビダ(Navidad)要塞(現ハイチのモレ・サン・ニコラス)5を建設した年である。以降、レコンキスタからコンキスタ(Conquista、征服)へ、スペイン王国はその領土を大きく拡張していくことになる。

<脚注>

  1. 様々な流れが想定されるが、マグリブ(北アフリカ)のベルベル人と近く、共通の祖先をもつという説が有力である。
  2. ヘロドトスの『歴史』、プリニウス(大プリニウス)の『博物誌』に引用されたストラボンの記述、タルテッソスの絶滅後ではあるがアヴィエヌスの紀行記に見られる。
  3. 青銅器時代に中央アジアから中部ヨ-ロッパに広がったインド・ヨ-ロッパ語族の民族と考えられている。ケルト族が鉄製武器をもち、馬戦車を駆使したことは、ギリシャ・ローマの文献に記録されている。ギリシャ人はガラティア人と呼んだ。
  4. アラビア語のムダッジャンがスペイン語に転訛したもので、残留者すなわちキリスト教徒に再征服された後のイベリア半島で、自分たちの信仰・法慣習を維持しながらその地に被支配者として残留を許可されたムスリムをいう。
  5. Navidadはクリスマスを意味する。「新世界」最初の砦ではあったが、翌年コロンが訪れるとインディオの襲撃によって破壊されており、残留した39名のうち生存者はいなかった。


[布野修司]

日本大学特任教授。1949年、松江市生まれ。工学博士(東京大学)。建築計画学、地域生活空間計画学専攻。東京大学工学研究科博士課程中途退学。東京大学助手、東洋大学講師・助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991年)、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞受賞(2006年)、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)と『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞受賞(2013年、2015年)。

第2回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (1)[三好準之助]

2016年1月3日 15時04分
スペイン語の多様性

第2回 スペイン語の多様性 ―単語の出自から― (1)


三好準之助


 日本で教えられるスペイン語は、これまでは大抵ヨーロッパのスペインという国の標準形でした。しかし堀田英夫先生の書かれたコラム「南北アメリカ・スペイン語圏形成の一歩」からわかるように、この世界の21か国でスペイン語が公用語になっているし、その人口も1位がメキシコで2位がコロンビア、3位がスペインです。ところが経済活動を計る国内総生産 (GDP)を見ると、スペイン語圏ではスペインが1位(世界14位)で、2位がメキシコ(世界15位)です(日本が世界第3位であることは知っていますね)。南北アメリカ大陸はかつて、そのほとんどがスペインの植民地であったという歴史的理由や、それゆえにスペイン文化を色濃く継承しているという文化的理由で、スペインのスペイン語が教えられてきましたが、今後は教育機関によって変わってくるでしょう。

 人々は時代の変化と共に生まれたり接したりする目新しい物事に名前を付けなくてはなりません。それゆえ日本語もスペインのスペイン語も、いわゆる中南米各国のスペイン語も、色いろな異言語のことばを導入しています。そしてそれが各言語の、単語の出自という点で多様性を生み出します。

  このコラムでは、スペインのスペイン語の単語の出自に見られる多様性を少しお話します。

  スペイン語はもともと、話しことばのラテン語が発展してできた言語です。ラテン語には書きことばと話しことばがあります。書かれたことばとしてのラテン語は文語の古典ラテン語です。それは話しことばである口語の平俗ラテン語とは異なります。スペイン語はこの口語ラテン語から生まれました。それが歴史に登場するときのスペインの、もとの言語です。そして10世紀を過ぎたころからスペイン語が登場します。

  スペインは西ヨーロッパの南にあるイベリア半島に存在します。このあたりは西暦紀元の前からローマ帝国の一部になっていました。ローマから来た人たちはイベリア半島の各地で口語ラテン語を使っていました。スペイン語が登場した頃には、ほかにも口語ラテン語から発展した言語が生まれます。その代表的なものとして、イベリア半島の西北部の地方で使われるガリシア語と東部で使われるカタルーニャ語があります。これらはスペイン語と同じように口語ラテン語から生まれた、スペイン語の姉妹語です。イベリア半島には、また、ローマ人がやってくる前から使われていた言語が残っています。それが北部で使われているバスク語です。スペインで使われているこれらの異言語からスペイン語に入った単語をいくつか紹介しましょう。

  ガリシア語はポルトガル語ととてもよく似ています。ひとつの言語(ガリシア・ポルトガル語)としても扱われます。ジャムの「マーマレード」は知っていますね。この日本語はフランス語(marmelade)から入ってきましたが、このフランス語は、また、ガリシア・ポルトガル語に入ってmarmeladaになり、これがスペイン語に入ってmermelada[メルメラダ]になっています(この3種類のスペルの微妙な違いに注意してください)。

  イベリア半島東部で広く使われているカタルーニャ語からスペイン語に入ったことばもあります。興味深い歴史的な事情から、「紙」の意味のスペイン語papelもカタルーニャ語から入っています。紙は中国で製法が発明され、日本にもヨーロッパにも導入されました。紙の製法がヨーロッパに紹介されたのは、アラビア人がスペインのカタルーニャ地方やイタリアに工場を作ってからです。文字を記録する材料としてローマ世界で知られていたのはパピルス(ラテン語でpapyrus)でしたが、このラテン語からカタルーニャ語で紙を指すのにpaperという言葉が作られ、それがpapel[パペル]という語形でスペイン語に入りました。紙は英語でもpaperと言いますが、これはラテン語papyrusから作られた古い英語に由来します。

  バスク語は言語系統が不明です。スペインとフランスの間にそびえるピレネー山脈の南北で使われています。スペイン語には面白いバスク語系のことばがあります。それは「左」の意味のizquierda[イスキエルダ]です。スペインのもとの言語はラテン語でしたね。ラテン語にも「左」の意味のことばsinestrumがありました。では、なぜ同じ意味のことばをバスク語から導入したのでしょうか。このラテン語はスペイン語に入ってsiniestro[シニエストロ]になりましたが、イベリア半島の人々が、鳥が左側から飛び立つと縁起が悪いと信じていたために、siniestroに不吉な意味が加わったのです。不吉な意味を避けるためにバスク語から同じ意味の単語を採用したのですね。

  次回はアラビア語からスペイン語に入っていることばの話をします。


[三好準之助]

京都産業大学名誉教授

第1回 南北アメリカ・スペイン語圏形成の一歩[堀田英夫]

2015年12月16日 14時48分
スペイン語圏の地理

  

第1回 南北アメリカ・スペイン語圏形成の一歩


堀田英夫


 ドミニカ共和国は、カリブ海に浮かぶエスパニョーラ島の東部にあり、首都サント・ドミンゴの旧市街は、「植民地時代都市」 (Ciudad Colonial) という名で1990年にユネスコの世界遺産として登録されている。ここは、コロンブス (スペイン語名クリストバル・コロン) の弟バルトロメ・コロンによって1496年にオサマ川の東側に建設された町が元になっている。1502年にエスパニョーラ島の総督としてスペインから派遣されたニコラス・デ・オバンドがオサマ川の西側に移した町が現在の植民地時代都市である。オサマ川の河口が、物資の積み下ろし、また人の行き来のための港として機能していたことがわかる場所にある。


 
 観光地としての植民地時代都市は、主要な建造物を歩いて見て回ることができる。2015年10月に筆者が訪れたときは、きれいに整備され、野球のグランドほどの広々としたスペイン広場 (Plaza de España) から散策を始めた。広場の西側にはテラス席のあるしゃれたカフェやレストランが並んでいて、東のオサマ川側にコロンブス宮殿 (Alcázar de Colón) がある。これは、コロンブスの長男ディエゴ・コロンが住居とした建物であり、川側に城壁が築かれていて、南北アメリカで最初の要塞兼宮殿である。内部は、植民地時代の家具調度が置かれ、当時の宮殿生活を彷彿させる博物館になっている。ディエゴ・コロンの妻マリア・アルバレス・デ・トレードに仕える侍女たちが出勤のために通ったことから「侍女通り」 (La Calle Las Damas) という名がついた通りも南北アメリカで最初の街路 (calle) とのことである。広場から南へ、その石畳の道を通って少し行くと王室博物館 (Museo de las Casas Reales) に至る。ここは、1511年に南北アメリカで最初の王立アウディエンシア (Audiencia聴訴院: 司法、行政を担ったスペイン王室の機関) が置かれたところである。建物内部には、長官席と数名の聴訴官 (oidor) が座る椅子が置かれた部屋も再現されていた。さらに南に歩くと、国立パンテオン (Panteón Nacional) がある。これは、1958年当時、専制政治によって国家権力を握っていたトルヒーリョが、イエズス会の教会だった建物を国家功労者を祀る霊廟として整備したものである。さらに南へ少し進み、オサマ川岸に南北アメリカで最初に建設された砦とされるオサマ砦 (Fortaleza Ozama) がある。砦の敷地を出て西に進むと大聖堂 (アメリカ首座大司教座聖堂 Catedral Primada de América) がある。ここには一時期コロンブスの遺骨が葬られていた。これも南北アメリカで最初の大聖堂である。

スペイン広場 (Plaza de España)
スペイン広場 (Plaza de España)
王立アウディエンシア (Audiencia 聴訴院)
王室博物館内のアウディエンシアの部屋
前方が長官席で、カメラの後ろに聴訴官の座る椅子が置かれている

 ここの歴史的建造物は、「南北アメリカで最初の」という説明がつくものが多い。すなわちスペイン人は、このサント・ドミンゴを最初の足がかりに、カリブ海域各地を探検し、1511年にキューバ島を征服、1521年にメキシコのアステカ王国を滅ぼし、1533年ペルーのインカ帝国を征服していった。そしてドミニカ共和国を含め、カリブ海にあるキューバ、プエルトリコ、大陸のメキシコ、中米(グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ)、南米のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイといった国々を含む広大な領域がスペイン語圏となったのである。

大聖堂 (アメリカ首座大司教座聖堂 Catedral Primada de América)
大聖堂 (アメリカ首座大司教座聖堂) の中央祭壇

  「スペイン語」という言語名には、スペインという国の名前がついているため、スペイン以外の
広大な土地で使われている言語であることが忘れられる傾向がある。「英語」が「イギリス語」という意味が薄れ、イギリスだけでなくアメリカ合衆国やオーストラリアの言語であると意識されているのと対照的である。世界銀行の2014年の人口データで、スペイン語を公用語とする21か国 (プエルトリコとアフリカの赤道ギニアも含む) のランキングを見ると、1位がメキシコで1億2539万人、2位がコロンビアで4779万人であり、3位のスペインの4640万人より多い。話者数の多さからは、スペイン語は、スペインよりもメキシコとコロンビアの方が重要ということになる。経済活動の一つの指標である国内総生産 (GDP) について、同じ世界銀行の2014年のデータで見ると、世界で14位のスペインが1兆4043億ドルで、スペイン語圏中で1位である。メキシコもこれに続き、1兆2827億ドルの世界15位で、スペイン語圏第3位は、少し離れて、世界24位のアルゼンチンで5402億ドルである。これらのデータからは、スペインと同じように他のスペイン語圏の国々も重要であることがわかる


 ドミニカ共和国は、野球で有名であり、政府開発援助 (ODA) などで日本との関係が深い。2000年に提訴された「ドミニカ移民訴訟」は、日本の国家と国民との関係を考えるために知る必要がある。世界史的には、ラス・カサス神父に先駆け、この地のドミニコ会士を代表してアントニオ・モンテシーノス師が、スペイン人植民者による先住民への虐待を糾弾した説教を1511年にサント・ドミンゴの教会で行ったことも重要である。また、スペイン語を学んでいる者にとっては、今日の南北アメリカのスペイン語圏が形成された最初の一歩が印されたところとして記憶したい。

2015年11月23日
<出典>
世界銀行の国別人口データ: 
http://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.TOTL

世界銀行による国別GDPのデータ: 
http://data.worldbank.org/data-catalog/GDP-ranking-table

※写真はいずれも2015年10月サント・ドミンゴにて撮影[©️2015 Setsuko H.]

[堀田英夫]
東京外国語大学大学院外国語学研究科修士課程修了
現在:愛知県立大学名誉教授
著書:『スペイン語圏の形成と多様性』(朝日出版、2011年)、編・共著:『法生活空間におけるスペイン語の用法研究』(ひつじ書房、2016年)、論文:「大航海時代の外国語学習―メキシコのフランシスコ会宣教師たちの場合」(愛知県立大学外国語学部紀要言語・文学編(47)2015年)など。より詳しくは<こちらへ>